ワンピース船出

10日夜の部、ワンピース再演を見にゆく予定だったが、何と9日の体育の日の昼の部(夜はもともとナシ)に主演の猿之助がすっぽん?のセリに衣装をはさまれ、左腕骨折、急遽、翌日以降すべて尾上右近主演となった。
 「ワンピース」はスーパータンバリンも導入され、ますますのテンポアップ、花道と舞台をいっときも休ませずに使う、限りなくストレスのない進行で、前々からのキャストは自在に役柄を発揮し、ことに猿弥の黒ひげと魚人の王は、彼がいなければ物語の歯車が動かないと思われ、右團次の「白ひげ」と並んで、重石として物語を支えた。
 巳之助の演技達者には改めて驚く。役がすっかり手の内に入っていて、今回スクアードのカツラが薄紫色になっていたが、それ以外は以前とほぼ変わらず、ボンクレーの場合も笑いというより凄みが増していた。
 隼人はマルコが新しく付け加わった役(回転しながらの宙乗りや、物語をしめくくる決め台詞があり)で、まだ少し心許なげな感じはあったが、本水の立ち回りなどで立ち役の華を見せてくれた。

 右近は、猿之助のくったくのなさよりもさらに、清新にさわやかな感じのルフィで、ハンコック役は、いつもの透明直情な(女神的な)味がきわだち、美しさではもちろん優っていた。猿之助の「女」の独特なニュアンスやなまめかしさとは全く違う、ストレートさだが、この人ならではの女形が堪能できた。
 「一生懸命」感が一幕ではわりあい目立ったが、二幕の監獄やカマーランドで物語が大きく展開しはじめると、その中の一人として溶け込み、自然な立ち位置に見えた。
 あの素敵なサーフボードの宙乗りの場面でも、猿之助のサービス精神はないものの、真摯でういういしい少年ルフィが、一度客席上を飛んで戻ってきたあと、ちょっとはにかんだように胸の中からスーパータンバリンを取りだしてにこっとする、あれがほんとうによかった。みずみずしい若さそのものだ。 
 三幕でエースが死んだり、いろいろあって心がつぶれてしまったルフィを魚人ジンベエが慰める。おまえはよくやった、と。
 すると、これは前回あったのかどうか覚えていないが、ルフィがおずおずと、指で自分をさして「やれた? やった?」と小さい声で訊ねる。
 これはもう、たいへんな代役を背負うことになった自分が「うまくやれていたか」と訊ねているようで、客席にもしみとおった。
 若さの透明感と(ときに清浄な色気の)ただようルフィは右近ならではの光の放ちかただったと思う。
 花道での全力疾走、そして見得の切り方が、猿之助の「客席への応答、対話」をはらんだ見せ方ではなく、(まだそのゆとりがないこともあり?)一生懸命さを優先して見せる動きで、それも爽やかだった。
 惜しみない拍手とスタンディングオベーション。11月25日までのフル失踪、がんばってほしい。そして彼のマルコが見られなかったことが、かなり残念。
 11月7日の昼の部を、即日購入、隼人のマルコの進化も見届けたい。
 
 今回も、二幕ラストのファーファータイムの、鯨になんともいえない喜びを感じた! 「ゆず」のライブで最初に使われたらしい等身大の鯨のバルーンの出現で、客席全体がドラマの中になった。

 

第二回九團次の会

9月30日昼、東急セルリアンホテルの能楽堂で、第二回九團次の会。
「翁千歳三番叟」の舞踊のあと、講談で「那須与一名誉扇之的」そして、最後は舞踊の「那須与一扇之的」

 セルリアンの能楽堂国立能楽堂などに比べると、小さくて、橋がかりも短く、こじんまりとした客席とのまとまり感。唄、三味線、囃子など一流の顔ぶれが揃っていて、冒頭から聴き応えがあった。

 もっとも気になったのは、能楽堂の舞台スケールでは、歌舞伎座などの広いステージ向けの舞踊がどうなのかなということ。二つともドラマティックなもので、特に「那須与一」は、「吉野山」の忠信の戦記語りの部分よりも激しく、さまざまな方角を使う(この舞踊初見)。
 
 大きな空間に広がる動きを意図したと思われる動的な舞踊は、静の極致のようなミニマムな能の動きをおさめるために作られている能楽堂では、その舞台からはみ出している感じもした。
 柱については、講談の前振りの部分で、「見えにくくてすみません」という九團次さんの発言があったが、あの柱は能楽では重要で、狭い中に天地乾坤を閉じ込める作り。また能のシテは、面の穴が小さくて視野がせまく、見えにくいこともあり、柱のそばまでは来ない。柱を感じさせないほど、内側の空間でまとまって演技している。なので、今回の二つの舞踊は、もう少し広めのステージで、また客席とのあいだのバリアーというべき柱もなく、劇場ぜんたいに波が広がる感じでの上演を見たかった。縁者の躍動感と、あの「柱」空間には若干違和感が。

 講談は実に面白かった。斜めに机をおいての熱演。さすがに歌舞伎の舞台に広がる身体を持っているだけあって、波の音や馬の蹄の音、また語りや所作に迫真力があり、プロの講談師とは違った良さがあるように思えた(プロのものはTVでしか見たことがないので、客席との関わり方が不明)。
 晴れやかできれいな鼻濁音の入った滑舌。さらりとした発声で、喉を絞める義太夫の発声とは違い、テンポも速く聞きやすい。

 今回は助演俳優を頼まず衣装も素であったので、集客がどうかなという不安があったと思うが、この千穐楽は満員。出身地の地縁の人たちや、寿司ざんまいの社長(後援会?)の姿があり、ロビーにはたくさんの花が来ていた。
 九團次丈のキャラクターなのだと思うが、明るく、どちらかといえば跳ねるような舞台で、「千歳」も重々しく幽玄な感じではなかった。
(「若」海老蔵丈の、最高の御曹司としての「唯我独尊」オーラはやはり独自のものなのかと改めて思った。九團次丈のオーラは、松也や愛之助に近く、陽気で親密な感じだ)

29日は上野の博物館に「運慶展」を観にいった。高齢層が多く、混んではいたが、巨大な仏像群なので、興福寺ほどではないが、力感、量感は味わえた。
 だが、やはりパワースポットの建築の中で見るのとは違う。美術品と宗教オーラの根源は近いのだろうと思う(古代の土器や祭器ふくめ)けれど、オーラは半分以下に削がれている気がした。
でも、でもなんであんなに暗いのだろう。(寺院内を再現したこともあろうけれど、プレートその他が見にくい)。

魁春休演!

歌舞伎座は5日に昼の部「毛谷村」「道行旅路花嫁」「幡随院長兵衛」。染五郎菊之助のコンビの若々しい毛谷村。壱太郎と藤十郎の「道行」。吉右衛門又五郎染五郎、お時が魁春。やはり「毛谷村」が楽しい演目で、桟敷から見ていたが、薄暗い後半ふたつはときどき寝てしまった。

18日は夜の部。たいていは苦手な義太夫狂言である「逆櫓」が意外にゆったり、みっしりと安定した出来で、これを支えていたのは、歌六の権四郎。吉右衛門はもちろん大きくてのびのびした感じがよく、母親役に定評ある東蔵のおよしも、情愛があったが、何と次の幕とのあいだに、「魁春が体調不良のため、山路役を東蔵」というアナウンスがあった。
「再桜遇清水 桜に迷う破戒清玄」は吉右衛門が前に脚本、主演を手がけた作品で、金比羅金丸座などではやっているが、歌舞伎座のような大きな劇場では初めて。女性の役で姫の雀右衛門についで重要な腰元山路を、突然、東蔵さんが務めることになり、せりふとせりふのあいだに、真空の穴が、何カ所も開いていた。プロンプターが終始ついていて、客席にも、いきなりぶっつけ本番であることがわかった。
 間をどう詰めるかほかの出演者が緊張し、迷いが走っている。
 一幕では少しコメディ調の「清玄」役の染五郎が、穴を塗り消そうと軽いフットワークを見せたが、あとは、どーなるのだこれは、という感じ。
 しかし、こうやってアンサンブルができるのかというメイキングが見られたのと、蟻の穴から堤が崩れたらどうなるのか、というのが如実にわかったのと、歌舞伎という演劇の構造成分の内訳を見られたのが興味深かった・・・

 魁春丈は午前の部のお時役でたいそう鼻血を出して、舞台上で動けなくなっていたようだ。

26日 セヴィリアの理髪師の結婚

イタリア文化センターにて。ピアノ伴奏。ロッシーニの序曲から始まり、とちゅうでモーツァルトの序曲に。台詞は日本語で、ボーマルシェの戯曲の情報も織り込まれている。
 とにかく楽しい、あの歌、この歌。porgi amorのあとで、回想シーンになり、リンドーロの歌や、ロジーナとフィガロの掛け合いなど。モーツァルトに戻ってからの、Dove sonoのあとでふたたび回想シーン。バジリオの弟子に化けて入り込む伯爵、本物のバジリオを重病扱いして追い返すところから、嵐の夜の場面まで、客席も舞台も「そうだった、あそこ、いいよね」感覚で盛り上がる。
 伯爵夫人とフィガロはどちらの歌劇にも登場、伯爵夫人はモーツァルトはまあ普通だが、ロッシーニのアリアはすばらしい! 
 両バジリオも達者だし、バルトロも、そしてロッシーニの伯爵(糸賀)が大活躍。最後に伯爵が「伯爵夫人許してくれ」の台詞のあと、いきなりスクリーンが頭上にあらわれ、そこに若き日の伯爵が愛を思い出し、絶唱ロッシーニテノールの鮮やかな高音が興奮を盛り上げた。

[8/26 18:00]
フィガロ:大沼 徹
スザンナ:田川 聡美
伯爵[セヴィリアの理髪師]:糸賀 修平
伯爵[フィガロの結婚]:黒田 博
ジーナ(伯爵夫人):醍醐 園佳
ケルビーノ:郷家 暁子
バルトロ:三戸 大久
マルチェリーナ:林 よう子
バジリオ:升島 唯博/森 雅史
ピアノ演奏:高田 絢子

 田尾下シアターカンパニー製作。 


そのほか。
15日幕張メッセ「ギガ恐竜展」帰りに雨
16日 歌舞伎座三部「満開の桜の森の下」野田秀樹原作
24日「深海」科学博物館「アルチンボルド展」西洋美術館
31日「横浜パシフィコ」恐竜展 三井記念館美術館「地獄絵ワンダーランド」


20日 九月三日 リンのホールで、島田裕巳さんと猫の対談。デジタル「解脱」論!

日光へ行った話と「深海」「アルチンボルド」②

「深海」は非常に混んでいた。チケットを買うのに10分以上並ぶ。途中で、割引券を配ってくれるおじさんがいて、100円の得をした。
 「非常に混み合っています」の立て看。
 ハッタリのない展示で、深海生物の標本が並んでいる・・ラブカ、ダイオウイカの作り物などもあったが、大きさを示すのが目的であってアートの精密さはない。
 セキトリイワシの不明種とされた140センチくらいの標本があった。関取?プラス鰯? という相反する名前である。 ホルマリンに漬けられた魚たちには、生き物だというリアリティがなく、スクリーンに映写されている海底映像(加工あり)の方に実感があるのは、動いているからであろうか。

アルチンボルド」は逆に空いていた。カフェすいれんで、ケーキセットを食べてからゆっくり地下二階へ降りる。子供たちを連れてきた二人の幼稚園の先生がいたが、子供たちにとっては、「肖像画」の部分をなす、果物や烏賊やえびが面白いらしかった。
 アルチンボルドの寄せ絵は横顔がほとんどだ。斜め顔も少しあるが、横顔は当人も知らず、周りの人もあまり認識していない部分であって、そこにモモや玉ねぎが埋め込まれて、心の凹凸が語られる。
  

日光へ行った話と「深海」「アルチンボルド」①

VRつまりヴァーチャルリアリティは、本当にリアリティをコピーできるのか?

これが私の突き当たった第1点。
華厳の滝はじめ、いろいろな場所を「すごい最新のアイフォン」で撮ると・・・
同時多発的にいろいろなところに焦点が合いすぎているあの画像は、その場に居合わせた身体が感じたものとは、どう見ても違う。個人個人の身体の感じたもう少しボケた映像は多分保存できないもので、だが、あとで写真をみると、それに置き換えられてしまうのであろう。

 恐ろしく進歩したCG動画によって、すべての想像力は実現または再現された、と思いがちであったが、どうも違うらしい。実際に例えば立木観音の御堂に入って巨大な観音と対峙すると、
身体のもたらす要素として、

まず巨大さが圧倒的に迫ってくる。

動画では大きいことまではわかるけれど、ディソシエイトされた映像であるため、何かよそ事となる。空間を共有することから来る、身体的映像体験ではない。

そして・・・・何か現実の存在の後ろから発する別の次元の深さ、奥行きのようなものが、空間をじわじわと浸してくる。オーラというのとも少し違う、もう一つ奥の次元、カメラに映らない何かである。

メカやコンピュータが作り出す本物らしさ、VRは、ひょっとしたら、遠近法を付け加えた「二次元」であって、本物はそれにもうひとつの次元が加わった「三次元」ではないのか? 確かに映像が映っているスクリーンは所詮二次元。
 遠近法の絵画は、現実の空間を「再現」してはいない。別種の感動を与えるが、それは再生、再現ではない。そのことを動画のカメラワークのせいで、私たちは忘れていた。


だからホームシアターで、例えば世界各地を訪れられるとしても、それはどこか「身体の与える深部感」を欠いている。暑いとか、足がだるいとか、お腹が空いたとか、旅がもたらすそういう側面とは違う、その中にいるという体験の立体感だ。

このことについては、もう少し考えてみる。

すばらしすぎた歌舞伎座二部 13日

8月は三部制。そして第二部。
修禅寺物語」前から4列目で見たせいもあるけれど、まったくせりふにむだがない、さくさくと進み、せりふひとつひとつがきちんとエッジの立っている戯曲だと、初めて感じた。もってまわった感じがない。
 キャストが、夜叉王が彌十郎、桂が猿之助、楓が新悟、そして頼家は勘九郎、と澤瀉系列と中村屋だったからかもしれない。前に見たときは吉右衛門、中車、と少し重ためだった。
 彌十郎の大柄な、そして優しくて少しゆるい芸風が、新しい夜叉王像を生み出し、猿之助の存在感ある桂と、ラストもよく噛み合っていた。「娘、顔を見せい」というせりふとともに上から幕が下りてくる。1時間ものだが、充実し、かつ切れ味がよかった。

 そしてもう「歌舞伎座殺人事件」の第二部はこれ以上のエンタメはありえない! というほどの楽しさ。四の切が劇中劇で、これを隼人がやったり巳之助がやったり、そして竹三郎が50年ぶりの静御前をやるというすさまじさ。
 猿之助の喜多さんは、四の切の裏話をあちこちにちりばめ、何百回もやってるから確かだ、と凶器の釘の位置を強調。
 金太郎と團子ふたりの子役がかわいく事件をリードし、児太郎は、中車演じる蟷螂座右衛門の色っぽい若妻、新悟に色目を使い、のちに化け猫と、7月に引き続き、「大女優」のはじけかただ。
 最後に弥次喜多宙乗りで去ってゆくところ、取り残された狐忠信の隼人が花道でうろうろするのも傑作。古畑任三郎ふうの猿弥、亀蔵、弘太郎の演じる弟子。
 隼人がぐあいが悪いので、狂言さしかえを、というところで寿猿と竹三郎に「団子売り」をやらせようというあたりも一部で、猿之助染五郎が踊ったばかりなので笑える。

 ワンピースでもまた竹三郎の老女形が楽しみである。